東京日常

あれから10年

平穏な午後、これを書いている。

あれから10年。

当時私は銀座にあるベンチャー企業の社長秘書をしていて、築何十年も経っている雑居ビル5階の狭いフロアにいた。

デスクを掃除していない社員の席がめちゃくちゃになり、ガラス引き戸の社長室のドアが閉まったり開いたりを繰り返し、なぜか咄嗟にドアを押さえていた。立っていられない揺れとはまさにこの事で「嘘でしょう?!」と何度も叫んだ記憶がある。

揺れが少し落ち着いて、エレベーターのない狭い階段を降りると周りのビルの人々も外に出て呆然としていた。

唯一、郵便屋さんだけ淡々と配達しているのを私はぼんやり見ていた。近くにはおしゃれなガラス張りの有名企業ビルがあり、その窓が割れたりしないといいなあなんて思っていたら、

その時、不在だった社長がなぜかにやにやしながら「なに?みんな外に出てんるの?」と帰ってきた。

しかし指示も出さずにすぐまた運転手の車でどこかへ行ってしまい途方に暮れること数時間。

やっと18時ごろ「各自の判断で帰るなり身を守れ」とメールを受信した。

もっと早くメールしていたけど、電話も通じずメールも通信されるのに時間がかかったからだけど、ボスとしてそりゃあねえだろ、と思いながら銀座から新宿の家まで徒歩で1時間半かけて帰宅した。

あれは金曜日で、私のいた会社は週明けなんら変わらず営業していたのだが、取引先はみな社員の身の安全のため様子見ということで繋がらないとこが多かったし、外資系の会社は早速大阪や福岡に引っ越すことになったところもあった。

もともとその仕事は3月で辞める予定で、実際辞めたのだが、上司として会社の社長として命を守る事態になった時に全く頼りにできないとわかり心底見損なったし、会社ってそうなんだと失望した。

どうやら、運転手を連れて自分の子供たちを迎えに行ったらしいが(成人して働いている)渋滞にハマり大変だったと聞いても私には「大変でしたね」としか言いようがなかった。

その頃はダンサーとして食べていないものの、土曜日にレッスンを持っていたり、声をかけていただいてショーに出演したりしていた。

会社を辞めて、この状況下で、自分はなんの為に踊るのだろう?とずいぶん考えた。社長にも鼻で笑われ続けた。そもそも、踊りは必要あるのかな?と。

歌舞伎町のライトが消されたり、震災の影響をもろに受けてビジネスや家庭がままならなくなってる時代に何て言って踊っていけばいいのだろう?

その年の6月、2度目のトルコで初めてヤロワという街に行き、旋回舞踊を習った。廻る日々の朝は、一緒に行った仲間やその場で出会った人たちと輪になってディスカッションするところから始まる。世界中からやってきていた人々に日本へのお見舞いの言葉もたくさん頂いた。

人種も理由も様々な面々がひたすら廻る現場で踊る意味を考えた。廻る人を見てるとぼんやりしてゆく。ぼんやりと、どうでもいいことや人生について考えてみたりする。踊る意味を求めて。

もちろん、海外に来て日々をただ楽しんでいたけど、いつも心の片隅に答えを探そうとする自分がいて落ち着かなかった。どうしたらいいかなんて誰も教えてはくれない。

トルコでの楽しい日々を終えて帰国した私は、結局具体的な答えや、人に表明できる言葉などはなんにもなくて、ただ踊っていくことにした。

被災したわけでもなし、ただ人生に迷っていたんだイカンイカンと、いやそもそも迷ってたの?人生とは迷うものでしょなんて、テキトーに進んできたのだ。

あれから10年、答えはまだない。

ただ踊るだけ。祈るように踊るだけ。踊りたい気持ちが現役のうちに。

廻るメンバーたち。一緒に行ったMackaとEmineも写っってる

飛行機で30時間南米ブラジルはリオデジャネイロにパンデミック前まで在住。下調べも予防注射もせず夫婦二人で殴り込み♡ 帰国後、出国前と変わらずプロベリーダンサーとして各種レッスンとパフォーマスの日々。企業へ出張してストレッチなども教えています。 ブラジル人の旦那さんと2人暮らし。とてつもなくポメラニアンが好き。

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